狂物語 2

  • 日付: 2016.1.25
  • 投稿者: crazy
 小学生の半ば頃に買ってもらった英語の教材、中学から始まった授業、高校、大学まで英語の勉強は続けました。約14年間、石に灸をするような英語の勉強だったのか。

  周りの状況から察して機内食で何を食べるか聞いていると判断はできても、いざ言われた英語の聞き取れなさが不甲斐なくて、情けなく て、不安でたまらない気持ちにさせるのでした。
  日本からシンガポールまでの客室乗務員は日本人で、何不自由なくサロンケバヤの曲線美に見惚れていたのですが、シンガポールからメルボルンの間では一言の日本語もなく、曲線美に何がしの素敵な感情を抱くどころか、綺麗な客室乗務員の顔ですらおぞましく感じてしまうのでした。
 非の打ち所のない笑顔で理解不能な音の羅列を奏でる客室乗務員に対して、試しに「イエス」と言ってみたら、ものすごい早口で全く意味のわからない英語らしき雑音が帰ってきました。聞き取れた単語は一つもなく、むしろ伝統衣装のような小紋柄のドレスを身にまとった美女が、長年習ったはずの英語を話していることすら信じられませんでした。
  「この美女はきっと英語を習い始めたばかりではないのか?」と、責任転換という現実逃避を始めたころ、いつの間にか英語らしき雑音は止み、美女が何やら返答を求めているような表情になっていました。英語に関する最後の引き出しを開け、「ノー」と言ってみました。
 後悔の土砂に押し流された気分でした。
 この時気狂が使えた英語は「イエス」と「ノー」で全てだったのです。そんなことを知る由もない美人客室乗務員は会話が成立しない苛立ちからか、自身の説明不足と勘違いしてしまったのか、今までにも増して早口で長い時間雑音を浴びせ続けました。。意味のわからない音の土石流に揉みくちゃにされる中、ふと聞き取れた単語がありました。
 「チキン」
 蜘蛛の糸にすがる思いというのを雲の上で実体験することになるとは、なかなか貴重な体験だったのかと思いますが、恐る恐る復唱した単語のおかげで、おぞましい美女は鶏肉のトマト煮込みのような機内食のプレートを渡し去ってくれました。臆病者にちょうどいい食事です。
 飛行機というのは便利なものです。気狂でも搭乗手続きを済ましてしまえば、何時にどこのゲートにいれば目当ての飛行機の乗れて、乗ってしまえば高い精度で目的地へ降ろしてくれるのです。合間に英語を復習している時間なんてありません。
 劣等感や不安、焦りなど他にもありとあらゆる負の感情を抱きながら5時間を過ごし、シンガポールエアラインは時間通りにオーストラリアのメルボルン空港へ着陸しました。
 空港の建物の中を歩く気狂はオーストラリアへ「降り立ってしまった」といった思いが心を支配していましたが、未だ入国成らず。入国管理局の検査を超えてこそ「入国」ということです。
 多くの人が無謀だと言った世界徘徊生活ですが、この英語力で挑む入国管理局の検査がまさに最大の難関だったと思います。後戻りの選択肢がない状態で、「無謀」と言われた時にもっと真に受け留めるべきだったと、次から次に後悔の新芽が吹き出します。
 機内で押し付けられるようにいただいた入国カードを、出国前に調べた書き方を見ながら仕上げ、平常心を保とうと努力を続けながら長い入国検査待ちの列へ並びました。
 冬の日本を抜け出し、夏真っ盛りのオーストラリアへ降り立った気狂は「暑いから」という理由ではない汗を全身から吹き出させながら、入国カードとパスポートを入国検査官の前に差し出しました。
 「… Bonsai Master? Whats your occupation?」
 顔を歪めた女性検査官は気狂が書いた入国カードから目をこちらに向けながら聞いてきました。occupation:オキュぺエイション?聞いたことのない単語でした。わからない単語をわからないと英語での言い方がわからない。
  完全にお手上げ状態に陥ったことを察してくれた検査官は「Bonsaiとはなんだ」と質問を変えてくれました。入国カードの職業を書く欄に盆栽士の英訳「Bonsai Master:盆栽マスター」と書いていたのです。「農家」と書くべきだったと後悔しつつも、不審者に向けるような目をそれほど嫌に感じなかったのは、飛行機内のおぞましい美女の英語とは違い、幾分聞き取れていたからでしょう。ただ、入国前に「盆栽講義」を始めることになるとは全く予想外です。
 「大木感のある小さな木を鉢に植えた芸術」
 そんなようなことを英語で言ってみたものの、全く理解してくれませんでした。
 30分ほどかけて説明した気分でしたが、きっと数分だったのでしょう。渋い顔をしていた検査官は手を挙げ、誰かを呼びつけました。現れたのは目算身長2m、強靭な肉体は総合格闘技のチャンピョンを思わせる仕上がりっぷりで、簡単に見えるところに警棒や銃の治ったホルスター、手錠など恐ろしい小道具がちりばめられた警務官のようでした。
 「bonsaiってなんだ?」
 チャンピョンは検査官と聞き取れない英語のやり取りを一瞬で終え、彼女と同じ質問をしてきました。しどろもどろに同じ説明をしてみましたが、やはり理解してもらえない。どうしたらいいのか途方に暮れていると、お土産で名古屋銘風盆栽展の記念帳を持っていたことを思い出しました。
 「Oh!!! Bonsai!!!」
 記念帳を見た二人は盆栽が何か理解し、少し陽気になったように見えました。実際気狂の気が晴れましたが、それは一瞬のことでした。
 「So whats your occupation?」
 「もう帰りたい。」
 盆栽を作ったり、売買したり、人の木を手入れさせてもらったり云々。
 検査が始まった時は、後ろにかなりの人数が列を成していたはずなのに、終わった時には検査待ちの列も一段落といった状態でした。
 すでに日本へ帰りたくなったのですが、空港の外へ出て炎天下のメルボルンの空を仰ぎ、ふと思い当たりました。「ここは虹の彼方なのか?」標識に日本語はなく、アジア系の人すら見当たらない。夢に描いた場所なのかもしれないけれど、心持ちは快晴の空とは真逆な気がします。持っているiPhoneは全く使い物にならない仕上がりで、目的地のヒントは名前だけです。ジーロングという町へ自力で行かなければならないのですが、正しい発音すらわからない。